2006/10/25
日本語のママ・パパの起源は意外に古い
ママ・パパはいつから使われているのか
私はお母さん・お父さんで育った口なので、ママ・パパという呼び方はちょっと肌に合いません。しかし、ママ・パパはてっきり戦後に生まれた呼び方かと思っていたのですが、意外に昔からある言葉のようです。
日経新聞の10月8日の記事に戦前の婦人雑誌に触れているものがあるのですが、その中で以下のような記述があったのです。
産児制限も昭和十年ぐらいになると常識になっていて、 コンドームとかペッサリーの広告が掲載されている。 脱毛や整形手術の広告も多い。外国崇拝で日本人のくせに、 「ママ」とか「パパ」とか両親を呼ぶのはけしからん、と 当時の文部大臣が発言した、ともコラムに書いてある
国立国会図書館で調べれば裏は取れそうですが、雑誌を特定するのが大変そうです。
でも検索してみたら、パパについてこんな記述がありました。元は朝日新聞の2004年10月15日の記事のようです。
明治の前半まで東京では「おとっさん」が一般的だった。
明治36(1903)年に国定教科書が「おとうさん」を載せたが、同じころ、洋行帰りの華族らから「パパ」がはやりだした。
大正に入ると高浜虚子が、パパは「吹けば飛びそうでいやだ」と難じた。
昭和の初めには「その呼称は父母への尊敬を失わせる」とパパ禁止を訴えた文相がいた。
終戦後はいっそう普及。今や皇太子ご一家も「パパ」派のようである。
同じブログにパパ・ママ両方についての言及もありました。これも朝日新聞2006年2月4日の記事が元です。
明治後半には洋行帰りの家庭で使われ、1917(大正6)年、高浜虚子の「パパママ反対論」に対し、与謝野晶子が「日本は文字も法律も外国から移植した。ことさら忌む理由なし」と反論、ちょっとした論争になった。
34(昭和9)年には海軍大将・岡田啓介内閣の松田源治文相が就任直後、「近頃、パパだの、ママだのがはやっているが、日本古来の孝道がすたれる。直ちに駆逐せよ」と、「日本精神」をあおった。
どうやら古くて新しい問題のようですね。
母親=ママという呼び名は不自然ではない
パパはよくわかりませんが、母親のことをママと呼ぶのは自然だと思われます。理科雑学アドベンチャーの『お母さんは「m」で始まる』の項に各国語での母親の呼び方が少しまとめられています。実際「ま」という音は発音しやすいように思います。日本語でも、少なくともお母さんの意味でなくとも、「まんま」としてご飯、赤ちゃんの場合はより直接的にお母さんの乳を差すものとしては古くから使われていそうです。
そういえば、岡山の「ままかり」は「まま(飯)を借りる」ほどおいしいというのが語源という話で、「ご飯」=「まま」ですね。
ママ・パパ登場以前は?
上に引用した中には、明治の前半まで東京では「おとっさん」が一般的
との記述が見えます。
大阪あたりだと今でも「おかん」「おとん」?
沖縄で祖父母を「おじい」「おばあ」と呼ぶのは割と知られていると思いますが、沖縄に移住して子どもを産んだ友達に父母の呼び方を聞いたところ、「こっちは結構ファーストネームの呼び捨てが普通」と言っていたので意外でした。
江戸時代の関東での呼び方を想像してみると、「おとう」「おかあ」あたりなのでしょうか。そこまで口が回らない赤ちゃんの場合は「かー」「とー」と言っていそうです。「と」はわからないですが、「か」はまあまあ発音しやすそうです。(私は専門家でもなんでもないので、あくまで印象ですが)
結局はっきりした答えはわからなかったのですが、はてなあたりで聞けば答えは出るのかな?
正しい言葉?
金田一秀穂さんがテレビで、例えば女子高生が使うような変な言葉も、結局それまでの言葉で表現できないものが生まれて来ているから、そのニュアンスを伝えるために新しく言葉が生み出されているわけで、過度に「正しさ」にこだわることはないというようなことを言っていたと記憶しています。
検索してみたところ、以下の「心地よい日本語」がそれに近い内容でしょうか。
最近、このクイズのような間違って理解している日本語を指して、“日本語の乱れ”がよく問題視されます。
しかし 、金田一先生は“心地よい日本語”とは、“乱れている”“乱れていない”という事よりも、気持ちや意味が通じることが重要であり、気持ちが通じなければ、そもそも相手は心地よいとは感じないのだと仰います。
また、言葉とはその性質上、時代に即して常に変化していくものです。夏目漱石の文体言語こそが正しい日本語だと言う時代があれば、樋口一葉が正しい時代、はたまた紀貫之が正しい時代もあります。時代に即して変化していく日本語に“正しさ”を求めるのではなく、やはり言葉に対して、“通じるという心地よさ”を感じるかどうか、ということが重要であると金田一先生は主張されます。
ママ・パパの由来について書いてきましたが、語源などを追求して「正しさ」にこだわるのは本来の言葉の役割を無視していることで、正しく気持ちが伝わる言葉ならそれがいいのかもしれませんね。
平野啓一郎公式ブログ - 「普通においしい」(12月4日追記)
平野啓一郎公式ブログ の「普通においしい」 という記事でも、言葉というのは生きているものだし、「日本語の乱れ」と言われるような話が好きではないということが語られていました。
言葉というのは、生きているわけですから、現代人は現代人なりの必然によって、好きなように工夫して言葉を遣えばいいわけです。無理があればすぐに廃れるでしょうし、しっくり来れば定着するでしょう。そういう変化をまったく認めずに、「普通においしい」という言葉の意味さえ分からないと言ってる人は、本人はそれで「美しい日本語」を守ってるような気になってるんでしょうけど、言葉に対して、無意味に硬直した態度に陥っているとしか思えません。
上記記事で取り上げられている「チョベリバ」にしろ、日本語として定着しなかったのは確かですが、言葉が使われていたその時その場には、既存の言葉では伝えられない、その言葉でしか伝えられない何かがあったから使われていたのでしょう。言葉は第一義にはコミュニケーションに目的があるのでしょうから、そこで「正しさ」を持ち上げて批判してみても意味がないと言えるかもしれません。もちろん単におかしい場合もあると思いますが。
それと「チョベリバ」に関しては、たまたまマスコミに取り上げられて広まっただけで、考えてみれば局所的にしか使われない言葉は、職場でも会社でも仲間内でも必ずありますよね。
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