2006/09/12
R25 で石田純一が恋愛他について語っていたこと(賽は投げられた!)
先週 9/7発行 の R25 (No.108) に載っていた石田純一のインタビューが意外におもしろかったのと、石田純一が引用していたカエサル (シーザー) のセリフの日本語訳の出所についていろいろ調べたので、記事にしてみます。
石田純一の人生論
R25 のインタビューは、一般的には軽薄というイメージで見られがちな石田純一の違う面を読める記事で悪くなかったです。学生時代から売れない時代を続け、最後に悔いのないように後1年間だけやらせてください
と頼み込んで、残り数ヶ月というところで、ヒット作になったトレンディドラマ「抱きしめたい!」に出演して売れるようになったそうです。石田純一も結構下積みが長くて、苦労人なんですね。
恋愛について語っている箇所は
恋愛は完全に確率論、やらなきゃ何も始まらない
という見出しがついています。恋愛に臆病になっている男性に対して
それはもったいない話ですよね。だって彼氏がほしい女性なんていっぱいいるんですよ。どうしてそれを1回や2回ダメだからって、シュンとしちゃうんだろうって。いや、俺もシュンとなりますけどね(笑)。ただ、一つだけいえるのは、やらなきゃ何も始まらないよと。とにかくやってみましょうよと。 だって悪いけど、恋愛って完全に確率ですからね、結果的に自分が1割バッターだったら、10人にいけば絶対に1人当たるんですよ。で、大変いいことに1人当たったらもういいんですよ。イチローみたいに3割から4割打つようなヤツだったら、どんどんステップアップするのもいいんじゃないかな
恋愛が完全に確率だっていうところは異論もあるかもしれませんが、やらなきゃ何も始まらないというのも、1回や2回ダメだからってやらなくなっちゃうのもったいないというのは、確かに言う通りでしょうね。
たまたま恋愛について語ったところを引用しましたが、結局のところ、このインタビューで石田純一は生きる姿勢について語っていて、インタビューの最後でこんな風に語っています。
実は俺、ジュリアス・シーザーがルビコン川を渡るときのセリフが好きなんですよ。"進めばこの世の地獄、進まざれば我が身の破滅。ならば進もう、神々のいる処へ。賽は投げられた"っていうね。恋愛に限らず何事も進んでも、退いてもダメなときってあるいと思う。なら、どうせ終わるならもう行っちゃえって。頑張ってやることはやったら、後は天に任すっていう、この精神は忘れないでほしいな
なるほど。こういう価値観があったんですね。
ここで有名な「賽は投げられた」につながる格好いい台詞が気になったので、出所を調べてみました。
「進めばこの世の地獄、進まざれば我が身の破滅。賽は投げられた!」の由来
検索結果で「地獄」という訳が出て来たのは、Dental Tribune(デンタルトリビューン)という歯科医師向けの雑誌の2005年11月号 vol.1 no.8 イタリア特集(3) (PDF です) しか見つけられませんでした。
やがてカエサルは言った。「さあ進もう,政敵が呼ぶ方へ。賽は投げられた」。渡るも地獄,戻るも地獄……今に伝わるルビコン川の名場面だ。この時,カエサル51歳。
原文のラテン語まで当たっていないのでわかりませんが、一般にはこの「地獄」の部分は「社会の悲惨」「世界の悲惨」というように訳されているようです。「地獄」は意訳っぽいです。
最も有名なのは、塩野七生「ローマ人の物語〈4〉ユリウス・カエサル ルビコン以前」 (文庫版) の中の文章のようです。(直接の引用元は名言集用ボード)
ルビコンの川岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ち尽くしていた。従う第13軍団の兵士達も、無言で彼らの最高司令官を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚達に言った。
「ここを越えねば、人間社会の悲惨。越えなければ、わが破滅」
そしてすぐ、自分を見つめる兵士達に向かい、迷いを振りきるかのように大声で叫んだ。
「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」
いろいろ調べてみると、塩野訳の神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ
という部分が、神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ
という表現になっているものも多々見かけました。これの出所を追求してみたのですが、Wikipedia のガイウス・ユリウス・カエサルの項の古い版に存在していたようです。
この表現に関する説明のようですが、該当項目のノートの2003年12月20日にところで以下のような記述がありました。
ちなみに書籍に書いてあることをそのまま持ってきているわけではありません。
この表現は2005年7月8日の編集で特に理由は示されずに消されています。塩野訳に近いので、グレーな部分を排するために消したのかもしれません。
それはそれとして、神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ
という表記を用いているのに、出所が Wikipedia であることを示さずに引用しているウェブページは、厳密には著作権法の定める引用の条件を満たしていないのかもしれませんね。(というか調べた範囲では引用元について触れているウェブページがなかったので、出所を探すのに苦労しました。)
本のねむり「か」で、「カエサルを撃て」という本に載っている訳も知りました。
ルビコンを越えれば世界の悲惨、越えねば我らが破滅。諸君、神々のおわしますところへ、敵どもが待つところへ、いざ進もうではないか。賽は投げられた。
ここまでいろいろ調べてみましたが、石田純一の語った進めばこの世の地獄、進まざれば我が身の破滅。ならば進もう、神々のいる処へ。賽は投げられた
は、著名な塩野訳ここを越えねば、人間社会の悲惨。越えなければ、わが破滅。進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!
が記憶の中で微妙に置き換えられたもののような気がします。検索していたら、以下のようなとても似た表現も見かけましたので、置き換えて記憶されやすいのかもしれません。
進めばこの世の地獄、進まねば我が破滅。賽は投げられた!
この件で調べてみて知ったちょっとおもしろいことは、Wikipedia のガイウス・ユリウス・カエサルの編集合戦です。合戦というほどのものではないですが、せっかく塩野訳を排して書き直したものを、経緯を知らない人が塩野訳で書き直していたりしていました。それだけ塩野七生の「ローマ人の物語」の影響は強いってことなんでしょうね。
追記:
R25.jp でインタビューの全文が公開されてました。
Comment
No Comments